Masukガザルム坑道の中は、外とはまるで空気が違っていた。
湿った冷気が肌へまとわりつき、ランタンの火が揺れるたび、岩壁に映る影まで
奥から響くのは、水滴の落ちる音だけだった。
静かすぎる坑道は、まるで巨大な生き物の腹の中みたいで、妙に落ち着かなかった。
帰還者ほぼゼロ。
危険度B。
改めて考えなくても、完全に来る場所を間違えている。
少なくとも、商人見習いと元奴隷が気軽に入っていい場所じゃなかった。
「……現地調達って、何を調達したらいいんだよ」
俺はぼやきながら、背負ったリュックを揺らした。
坑道に入る直前、ヴェルカは酒瓶を片手にケラケラ笑いながらこう言ったのだ。
『足りないものは現地調達しな』
雑すぎる。
武器も作戦もほぼ丸投げである。
頼みの綱のリュックも、中身はロープ、鍋、フライパン、工具、折りたたみシャベル、干し肉、果物ナイフ。
あと何故か魚の干物まで入っている。
本当にこの人、俺たちを生かして帰す気あるんだろうか。
そんなことを考えていると、不意に隣でミリスがしゃがみ込んだ。
「?」
何をしているのかと思えば、地面に落ちていた石を拾っている。
しかも一個ではない。形を見比べながら、真面目な顔でいくつも集め始めた。
「……ミリス?」
「使えるかもしれない」
そう言って、石をリュックへ入れる。
《ただの石:0G》
綺麗なくらい価値ゼロだった。
「いや……石集めてどうするんだ?」
「投げる」
あまりにも真顔で返されて、一瞬ツッコミに困る。
「……役に立ちたい」
ミリスは石を握ったまま、小さく呟いた。
「クラドの」
「…………」
本人に変な気は一切ないのが余計に困る。
無表情で、ただ当然みたいにそう言うのだ。
以前のミリスなら、命令されない限り自分から動こうとはしなかった。
けれど今は違う。何か役立てるものはないか、自分で考えて探している。
その方向性が若干ズレてる気もするけど。
「……まあ、持つだけなら好きにしろ」
「うん」
ミリスはほんの少しだけ嬉しそうに頷くと、また石を選び始めた。
地味に丸いものや握りやすそうな形を選別している辺り、本人的にはかなり真剣らしい。
だが、その時だった。
――カサッ。
微かな物音。
俺は反射的にランタンを向けた。
暗闇の奥。岩陰の向こうで、赤い光がぬらりと揺れる。
一つじゃない。
二つ、三つ――複数。
「……ミリス」
「うん」
空気が張り詰める。
次の瞬間、ギャギャッ! という耳障りな奇声と共に、小柄な影が暗闇から飛び出してきた。
灰色の皮膚。異様に長い腕。口元には獣みたいな牙。
《坑道ゴブ:32G》
「うわっ⁉」
一匹だけじゃない。次々と飛び出してくる。四匹だ。
しかも速い。
「来る!」
ミリスの声と同時に、一匹が真正面から飛び掛かってきた。
咄嗟にリュックを前へ出す。鈍い衝撃が腕に走った。
「ってぇ⁉」
後ろへよろける。普通に重い。普通に怖い。
というか、やっぱり武器が足りない!
「ナイフ一本でどうしろってんだ、あの酒カス‼」
叫びながら果物ナイフを抜くが、リーチが短すぎる。この距離で殴り合うのは危険だ。
再びゴブが飛び掛かってくる。
その瞬間、脳裏にヴェルカの言葉が蘇った。
『商人ってのはねえ、商品を見るんじゃあない。“価値”を見るんだよ』
「……価値」
視線が、リュックへ落ちる。
使える物じゃない。
――“使える価値を与えられる物”。
俺は咄嗟に、リュックからフライパンを引き抜いた。
《鉄製フライパン:45G》
価値操作。
頭の奥が熱くなる。
《鉄製フライパン:45G → 簡易鋼盾:310G》
瞬間、フライパンが淡く光った。
直後――ガギィン‼ と硬質な音が響き、飛び掛かったゴブが弾き返される。
「止めた……⁉」
ただの調理器具だったはずのフライパンが、盾みたいに衝撃を受け止めていた。
ミリスが目を丸くする。
「……硬い」
「いける……!」
なら――!
「ミリス! その石を投げろ‼」
「うん!」
ミリスが全力で石を投げる。
ビシャッ‼ と妙に重い音が響いた。
《ただの石:0G → 投擲礫石:40G》
直撃したゴブが、そのまま後ろへ吹っ飛ぶ。
「はぁ⁉」
俺もミリスも同時に目を見開いた。
今の石、威力おかしくなかったか?
吹き飛ばされたゴブが、岩壁へ叩き付けられて悲鳴を上げる。
ミリスは自分の手を見下ろし、それから石が消えた先を見て、小さく瞬きをした。
「……飛んだ」
「いや、今の何だよ⁉」
岩壁へ叩き付けられたゴブが、そのまま動かなくなる。
あんな威力、ただの投石じゃあり得ない。
だが考えてる暇はない。別のゴブが横から飛び掛かってくる。
俺は咄嗟にフライパンを叩き付けた。
ガンッ‼ と鈍い音。
ゴブが床へ転がる。
《鉄製フライパン:簡易鋼盾 耐久低下》
「うっ……!」
頭の奥に、妙な感覚が流れ込む。
価値を変えた物の状態が、何となく分かる。
なら――。
「ミリス! もっと石を!」
「うん」
ミリスが即座に石を差し出してくる。
しかもさっきより選別が進んでいた。
丸い石。尖った石。平たい石。
本人なりに“用途”を考えているらしい。
こんな状況なのに、少しだけ笑いそうになった。
「よし……!」
飛び掛かってくるゴブを睨みながら、俺は石に意識を集中させる。
《ただの石:0G》
価値を与える。
もっと危険に。もっと脅威に。
《ただの石:0G → 爆裂鉱石:180G》
石の表面に赤い亀裂のような光が走った。
「ミリス! 投げろ!」
「うん」
放られた石がゴブの足元へ転がる。
直後。
――ドゴォン‼
爆炎が坑道を揺らした。
「ギャアアッ⁉」
二匹まとめて吹き飛ぶ。熱風が顔を叩いた。
「うわっ、マジで爆発した⁉」
「……すごい」
ミリスが少しだけ目を輝かせていた。
その顔を見た瞬間、妙な確信が湧く。
いける。
“価値”さえ作れれば戦える。
ゴブたちが警戒したように距離を取る。
その隙に、ミリスがまた石を拾って差し出してきた。
「次」
「サンキュ!」
俺は半ば反射で石を掴む。
今度は別のイメージ。
眩しさ。閃き。目潰し。
《ただの石:0G → 閃光鉱:95G》
白い光が石の内部で明滅する。
「投げろ!」
石が宙を舞う。
次の瞬間。
バシュゥッ‼
坑道を白光が埋め尽くした。
「ギャッ⁉」
ゴブたちが一斉に目を押さえて暴れ回る。
「今だ!」
俺は駆け出し、フライパンを横殴りに振るった。
ゴッ‼ と鈍い感触。
さらにミリスの投石が飛ぶ。
ドガッ‼
さっきまでの“ただの石投げ”じゃない。
価値を与えられた瞬間、完全に武器へ変わった。
ゴブの一匹が悲鳴を上げながら逃げ出そうとする。
その背中へ、俺は最後の石を構える。
「これで――!」
今度は熱。火種。着火。
《ただの石:0G → 火打ち魔石:60G》
石が壁に激突した瞬間、内部で圧縮されていた火打ち鉱が弾け、激しい火花を撒き散らす。
近くに零れていたランタン油へ引火する。
ボワッ‼ と炎が広がり、逃げかけたゴブが火だるまになった。
「ギィィィッ⁉」
悲鳴を上げながら転げ回り、そのまま動かなくなる。
静寂。
焦げ臭い煙だけが坑道へ漂った。
「…………」
俺は肩で息をしながら、自分の手を見る。
ただの石だった。
そこら辺に落ちてる、価値ゼロの石。なのに。
「……戦えた」
呆然と呟く。
すると隣で、ミリスが小さく頷いた。
「クラド、すごい」
「いや、ミリスの石集めも大概だろ……」
「役に立った?」
不安そうに聞かれて、一瞬言葉に詰まる。
それから、俺は笑った。
「ああ。めちゃくちゃ助かった」
ミリスは少しだけ目を丸くした。
それから、口元がほんの僅かに緩む。
その表情を見た瞬間、胸の奥が妙にざわつく。
たった一言褒められただけで、そんな顔をするのか。
……ほんと、今までどんな扱いを受けてきたんだ。
だが感傷に浸っている余裕はない。
坑道の奥からは、相変わらず不気味な風音が響いていた。
「……行くか」
「うん」
俺たちは再び、暗い坑道の奥へ足を踏み入れた。
***
そこから先は、半分くらい勢いだった。
道中でも何度か魔物に遭遇した。
天井から飛び掛かってくる《坑道ゴブ》、岩陰に擬態していた《
正直、一歩間違えれば普通に死んでいたと思う。
けれど、その度に俺たちは“価値”を作った。
石ころは投げれば弾丸になり、工具は罠になった。
ロープは拘束具へ変わり、鍋は即席の防具になる。
フライパンに至っては、もはや完全に盾だった。
最初は手探りだった戦い方も、少しずつ形になり始めていた。
「右」
ミリスの短い声が飛ぶ。
反射的に身を屈めた直後、頭上を
そこへミリスの投石が直撃し、魔物が岩壁に叩き付けられる。
以前の彼女なら、こんな風に自分から動けなかっただろう。
だが今は違う。周囲を見て、必要な物を探し、自分で考えて動いている。
その変化が、何だか少し嬉しかった。
「……というか、なんでそんなに石拾うの慣れてるんだよ」
「いっぱい落ちてるから」
「理由になってないんだよなぁ……」
リュックの中は、いつの間にか石だらけになっていた。
けれど、その石に何度助けられたか分からない。
気付けば俺自身も、“価値のない物”を見る目が少し変わり始めていた。
そして、どれくらい歩いただろうか。
狭かった坑道が、不意に大きく開ける。
「……うわ」
思わず声が漏れた。
巨大な空洞だった。天井は遥か高く、岩壁一面に青白い鉱石が結晶のように突き出している。
暗闇のはずなのに、洞窟そのものが淡く発光していた。
まるで夜空の中へ迷い込んだようだった。
「……綺麗」
隣でミリスが小さく呟く。
その中心に、一際強く輝く鉱石があった。
雫みたいな形をした、透き通る蒼。
視界に文字が浮かぶ。
《
「――これか」
喉が鳴った。
素人目でも分かる。ただの宝石じゃない。
街一つ買えるというヴェルカの言葉が、冗談に思えなくなるほどの存在感だった。
「やっば……」
吸い寄せられるように近づく。こんなもの、本当に存在したのか。
「思ったより簡単だったな……」
気が緩んだのは、その時だった。
「……クラド」
ミリスの声に、思わず振り返る。
だが、ミリスは俺を見ていなかった。
その視線は、俺の後ろに向いている。
顔色が変わっていた。感情の薄い彼女が、はっきりと怯えていた。
「……いる」
その一言で、背筋が粟立った。
気付けば、水滴の音が消えている。
さっきまで感じていた洞窟の気配そのものが、どこか遠ざかっていた。
静かすぎた。
まるで巨大な何かが息を潜め、こちらを見下ろしているような静寂だった。
嫌な汗が首筋を伝う。
恐る恐る、振り返る。
最初、それが何なのか分からなかった。
壁だと思った。黒い岩盤が、洞窟の奥にそびえているのだと。
だが違う。
それは、ゆっくりと動いていた。
ゴリ――――ッ。
鈍い音が響く。
巨大な顎が、岩壁を噛み砕いていた。
岩が豆腐みたいに砕け散り、火花を散らしながら崩れ落ちる。
暗闇の中で、赤熱した鉄みたいな光がゆっくり揺れた。
目だった。
あまりにも巨大すぎて、距離感が狂う。
馬車より大きい頭部。岩盤みたいな
全身を覆う無数の傷。
そして、鉄臭い熱風みたいな息。
《――価値測……》
表示が途中で乱れた。
バチッ、と視界の文字が火花みたいに明滅する。
こんなの、初めてだった。
――『グラン・モルド』。
帰還者ほぼゼロ。
その意味を、俺はようやく理解した。
グラン・モルドが、ゆっくりこちらへ顔を向けた。
赤熱したような眼光が、暗闇の奥で鈍く揺れる。
その瞬間、全身の毛穴が一斉に開いた。
「――逃げるぞ、ミリス!」
「うん!」
反射的に叫び、星涙石を掴んで駆け出す。
だが背後で、ギギギギ……と金属を擦るような異音が響いた。
振り返る。
グラン・モルドが、岩壁に巨大な爪を突き立てていた。
次の瞬間、轟音と共に天井の岩塊が崩れ落ちる。
「っ⁉」
退路を塞がれた。
土煙が舞い、坑道が揺れる。
逃がさない。
そう言われた気がした。
「ウソだろ……」
喉が引きつる。
その時、不意にヴェルカの軽薄な声が脳裏によみがえった。
『まあ、バレた時は頑張って倒すしかないね』
「……冗談じゃなかったのかよ、あの酒カス……!」
思わず悪態が漏れる。
だが、泣き言を言っても状況は変わらない。
グラン・モルドが低く唸るたび、坑道全体が震えていた。
まともに戦えば死ぬ。
それでも、戦わなきゃ終わる。
俺は荒い息を吐きながら、背中のリュックへ手を突っ込んだ。
ロープ。鍋。フライパン。工具。干物。シャベル。果物ナイフ。
改めて見ても、酷い荷物だ。
けれど。
「……やるしかない」
ヴェルカは言っていた。
商品を見るな。価値を見ろ、と。
なら――このガラクタ全部に、使い道があるはずだ。
隣でミリスが、小さく石を握り締める。
「クラド」
「ああ」
俺は震える手でフライパンを構えた。
目の前では、
まるで、獲物を味わうみたいに。
クラドたちがミナスガルドを旅立って、三日後の真夜中。「くそ……アルベリオの役立たずめ……!」 ミザールは脇腹を押さえ、人気のない路地を急いでいた。 息を吸うたびに喉がひりつき、慣れない石畳に何度も足を取られる。 こんな惨めな思いをするのも、全てはあの男がしくじったせいだ。 角を曲がったところで足を止め、背後を窺う。 追ってくる足音はない。 それでもしばらく耳を澄ませてから、ようやく詰めていた息を吐いた。 街さえ出れば、どうにでもなる。 金を握らせれば動く連中など、いくらでもいるのだ。 乱れた襟元を直し、歩みを再開する。その時だった。「あら。こんな夜更けに大急ぎで、どこへ行くのかしら?」 鈴を転がすような声が、ミザールの足を止めた。 声の方を見やると、その先に少女が立っていた。 街灯の下、全身を包む黒い装束に、細い金の線が浮かんでいる。 白磁のヴェネチアンマスクで素顔は窺えない。 だが少女の手に握られた短剣が、猫の目のように爛々と輝いていた。「悪いなお嬢さん、ボクは見ての通り急いでいるんだ。そこを退いてもらおうか」「残念だけれど、それは無理な相談ですわ。ミザール様」 少女はマスク越しにミザールへ笑いかけ、一枚のカードを投げ放つ。 カードは足元の石畳を滑り、靴先に当たって止まる。「……なんの真似だ」 しかし少女は答えない。 ミザールは彼女を警戒しながら腰を屈め、カードを拾い上げた。 自分の名に続く細かな文字に目を走らせた途端、眉がぴくりと跳ねる。「まずはたしか、人身売買だったかしら」 指先が強張った。 少女はカードを見るまでもなく、そこに記された罪状をすらすらと読み上げていく。 海賊との取引も、口封じを命じた相手も、ミザールが金を使って揉み消してきたはずのことばかり――。「そして、商船襲撃の手引き……救いようもない悪党ね、あなた」「あの異国人共の船はアルベリオが勝手にやったことだ! ボクは何も――」「あら? まだどこの船とも申し上げておりませんけれど?」 少女の指摘に、ミザールは口を噤んだ。 仮面の奥から向けられる眼差しに耐えかね、手の中のカードを握り潰す。 ――この女は知っている。 どこまで調べたのかは分からないが、生かして帰すわけにはいかなかった
その日の夜、宿屋で俺たちを待っていたのは、目を疑う光景だった。「おう、遅かったじゃねえか」 目の前にはヴェルカ。しかしその隣に、酒瓶がない。 床に転がっていた空瓶もなく、酒の臭いすらしない。「ヴェルカ、だよね?」「まさか入る部屋を間違えたのでは」「合ってるわ。こんな時に飲んでられるかよ」 ヴェルカは顎でベッドを示し、座るよう促してきた。 三人でベッドの縁に腰を下ろす。向かいの椅子に座るヴェルカを見て、俺は口を開いた。「それで、話ってなんだ?」 ヴェルカはすぐには答えなかった。 秒針の音がやけに大きく聞こえる。「ヴェルカ殿?」「クラド、ミリス。それと、カグヤ。……すまなかった」 深々と頭を下げられ、俺は思わず息を呑んだ。「ヴェルカ? どうしたんだよ、急に」「お前ら、アルベリオが競売会場で言ったこと、覚えてるか?」 真っ先に口を開いたのはカグヤだった。「利用されている、たしかそう言っていたような」「それだ。そのことで、お前らに謝らなきゃなんねえ」 顔を上げたヴェルカは、俺たちを見据えた。「アイツの言ってたことは間違っちゃいねえ。私は確かに、お前らを利用していた」「……利用?」 ミリスが目を丸くして、俺とヴェルカの顔を交互に見ている。 隣ではカグヤも眉を寄せていた。「それは……どういう意味ですか?」「言葉通りだ。私には私の目的があって、そのためにお前らに目を付けた」 俺たちに教えてくれたことも、ここまで一緒に旅をしてきたことも、その目的のためだったのか。 けれど、思い浮かんだのは、あのベリアルを前にした時の姿だった。 ヴェルカは自分の命を削ってまで、俺たちを立たせてくれた。 あれも全部、自分のためだったとは思えない。「……何のために?」 ヴェルカが少しだけ目を見開く。「怒らねえのか?」「理由も聞かずに怒れるかよ。アンタには、命だって助けてもらってるんだ」「……ったく」 ヴェルカは困ったように笑い、椅子の背にもたれた。「じゃあ、少し昔話に付き合ってくれ」 俺たちが黙って待っていると、やがてヴェルカは話し始めた。「八年前、私は《夜明けの牙》ってギルドにいた。当時はそこそこ名の知れたギルドでな。私にも、仲間って呼べる奴らがいた」 仲間、と口にした時だけ、声が少し和ら
「……ド!」 声がする。「……ラド!」 誰かが俺を呼んでいる。 そういえば、あれから俺はどうなったんだ? ベリアルを斬って、奴の身体が崩れて、それから――。「クラド!」「クラド殿! 起きてください!」 瞼を持ち上げた途端、全身が一斉に痛みを訴えた。 肩も腰も頭も痛い。むしろ、痛くない場所を探した方が早そうだ。「痛ァッ!」 反射的に起き上がろうとした俺の額を、ヴェルカが掴んで地面へ押し戻した。「バカ、そんなすぐ起きたら傷が開くだろうが」「だったらもう少し優しく戻せ!」「いっけね」 舌を出すヴェルカへ文句を言う間もなく、今度はミリスが胸へ飛び込んできた。「クラド! よかった、生きてた……!」「ミ、ミリス……肋、肋が……」 聞こえていない。 ベリアルを倒した直後に仲間の抱擁で死ぬのだけは、さすがに勘弁してほしい。「こらこらミリス殿。その辺にしておかないと」「だって、だって……」「このままじゃクラドが死ぬぞ?」 ヴェルカが笑う。 つい数秒前、自分が俺の頭を地面へ押し戻したことは忘れたらしい。 ……いや、ちょっと待て。「俺って確か、落ちてなかったか?」 そこまで思い出したところで、カグヤがミリスを引き剥がしながら振り返った。「あの後、ヴェルカ殿が受け止めてくれたんですよ」「ったく、最後まで世話の焼ける弟子だよ、お前は」 そう言うくせに、ヴェルカの口元は少しだけ緩んでいた。「……ヴェルカ」「あ?」「ありがとう」「き、気持ち悪ぃこと言うなよ。鳥肌立つだろ」「おい! 人が素直に礼言ってんだから受け取れよ!」「いらねえよ。現金で寄越せ」「結局金かよ!」 まったく。「それよりクラド殿、身体は本当に大丈夫ですか?」「全然大丈夫じゃない。たぶん骨、何本かいってる」「……治療していただきましょう」 そこでようやく、俺も大きく息を吐いた。 改めて周囲を見る。 夜市だった場所は見る影もない。 石畳は抉れ、建物は崩れ、《価格暴落》に呑まれた一帯には瓦礫すら残っていなかった。 灰だけが、夜風に舞っている。 そして――ベリアルはいない。「……本当に、倒したんだよな」「ええ。気配は完全に消えてい
「俺たちの価値は、俺たちが決めるッ!」 叫び声が、灰色の街に響き渡った。 その声が消えてからも、しばらく誰も動かなかった。 瓦礫の山。崩れ落ちた家々。価値を奪われ、砂と灰だけになった石畳。 その中心に立つベリアルは、まるで巨大な城壁のように俺たちを見下ろしている。『ほぉ。ならば見せてみよ、貴様らが決めた価値とやらを』 対して俺たちは……正直、限界に近かった。 それを見透かしたように、ベリアルの口角が僅かに上がる。 だが、その口が開くより早く――。「だが今の貴様らのような雑魚羽虫にできることなど、たかが知れている」 ヴェルカが芝居がかった声で、その続きを先回りした。「……なんて、いつまでも言われっぱなしは癪だからよォ! だから見せてやる!」 驚き振り返る暇もなく、ヴェルカは強引にミリスとカグヤのうなじを掴んだ。 二人が目を丸くするのも構わず、その手に力を込める。「この能力、後がキツいから嫌いなんだが……。贅沢は言ってられねえ!」 ヴェルカの手が、二人のうなじを掴んだまま強く光る。「ちょ、ちょっとヴェルカさん⁉」「ヴェルカ、何をするつもり?」「こっから先は、未来の私に“ツケ”てやる。ただそれだけだ」 その言葉と同時に、光が二人の身体を包み込んだ。「……え?」 ミリスが自分の手を見つめる。 さっきまで震えていた指には力が戻り、カグヤの傷口から流れていた血も止まっていた。「これ……」「体力と魔力をまとめて前借りした」 ヴェルカは二人から手を離すと、肩をぐるりと回した。「未来の私からなァ」「未来から……?」 カグヤが不思議そうな顔で問う。「未来から。だから後払いだ」 ヴェルカは笑った。「当然利子付き。最悪だろ?」 軽口とは裏腹に、その額にはじっとりと汗が浮かんでいる。 俺は思わずヴェルカを振り返る。「おい、それって……」「なに心配すんな」 ヴェルカがニヤリと笑った。「師匠ってのは、弟子より先にぶっ倒れるくらいで丁度いいんだよ」「そんな理屈、聞いたことないぞ」「今私が作った」 そう言って、ヴェルカは俺の胸を軽く叩いた。「クラド。テメェもだ」「……俺も?」「当たり前だろ。まさか二人だけ元気にして、
巨体が大きく揺れ、そのまま石畳へ崩れ落ちた。 ゆっくりと土煙が晴れる。 焦げた胸板。 焼き潰れた右目。 額にはヴェルカの蹴り跡が深々と刻まれていた。 それでも、ベリアルは起き上がろうとはせず、ただ自分の掌を見ていた。『ぐ……。何故、だ……』 低く唸るような声が響く。『何故、我に攻撃が届いた』 その問いは俺たちではなく、自分自身に向けられているようだった。『我に奪えぬ価値はない。我の前では全てが無価値となるはず』 大きな掌――その中央に空いた風穴を見つめ、ゆっくりと握る。 触れたものの価値を奪う掌に、初めて付けられた傷なのだろう。 その姿を見て、ヴェルカが鼻で笑った。「どうやら神様ってのも、案外頭は固ェみたいだな」 神を名乗るには、随分と間抜けな顔だ――そう言わんばかりに肩を竦める。 ミリスが俺とベリアルを見比べる。「結局、どうして攻撃が当たったの?」「私にも、全く見当が付きません」 屋根から降り立ったカグヤが静かに首を振った。「私の符術は、触れられた瞬間に崩壊しました。それなのに、クラド殿の攻撃だけが通った理由は……」「そこなんだ」 俺は二人へ視線を向けながら言った。「考え方が、逆だったんだよ」「逆?」 ミリスが瞬きを繰り返す。「じゃあ逆に聞くが、お前ら、音を殴ったことはあるか?」 その横から、ヴェルカが割って入ってきた。「……え?」「光でもいい。掴んだことは?」 あまりに突飛な問いに、二人は揃って黙り込む。「そんなのできるわけ――」 言いかけたミリスの横で、カグヤが眉を寄せた。「というより、それと今回の戦いに何の関係が……」「ああ、普通なら関係ねえ」 ヴェルカはニヤリと笑う。「けど今回は、その"普通"が答えなんだよ」 俺も頷いた。「俺の能力も、ベリアルの能力も、本質は同じだ」 掌を見つめながら続ける。「触れたものの価値を扱う能力。ただ、俺は価値を変えられて、あいつは奪う。それだけの違いだ」「つまり……同じ条件でしか発動しない?」 カグヤが静かに口にする。「そういうこと」 するとミリスが、まだ納得できない様子で首を傾げた。「でもカグヤの攻撃だって、光みたいなものだったよ?」「いえ……厳密には違います
急ぎ足で競売会会場――オペラ座を出ると、露店の連なった夜市が広がっていた。 ほんの数分前まで笑い声で満ちていたはずの夜市は、もうそこにはない。 果物を抱えた商人は荷車を放り出し、家族連れは悲鳴を上げる子供の手を引いて逃げる。 行き交う人々が我先にと押し合い、倒れた誰かを踏み越えて逃げて行く。 その中心に、夜空を背負うように立つのは、三メートルを超える怪物。 ベリアルは逃げ惑う群衆など眼中にない様子で、一軒の露店を掴み上げた。 次の瞬間、その屋台は砂のように崩れ始めた。 木材も、布も、並べられていた雑貨も。 触れられた全てが色を失い、灰となって夜風へ溶けていく。『脆い』 ベリアルは掌に残った灰を見つめ、退屈そうに呟いた。『価値無き器は、触れるだけで崩れる』 言葉と同時に近くの露店を蹴散らす。 その風圧一つで、周囲のテントが舞い上がり、小さな瓦礫が飛び荒む。「皆さん、下がって!」 《硬》 カグヤが間髪入れずに札を切り、障壁を展開した。 それでも勢いがついた瓦礫は、その障壁すら突き破って襲いかかってくる。『先刻の人の子か。何をしに此処へ来た』「そんなの決まってるだろ! オマエを止めに来たんだ!」「街を壊すなんて、そんなの許さない!」『戯言を。貴様らのような無価値なデク人形に、我は倒せぬ』 ベリアルは俺たちを見下しながら、一歩踏み出す。 地面が大きく揺れ、思わず転びそうになる。『だがこの我に立ち向かう勇気、賞賛に値する。価値なき勇気だがな』「図体だけじゃなく、態度もデカいとはなァ。ハッキリ言って、私はアンタが嫌いだぜ」 ヴェルカは鼻で笑い、スカートの裾を豪快に引き裂いた。 そして先程のお返しと言わんばかりに右脚を踏み出し、ベリアルの顔を睨み上げた。「テメェにも教えてやるよ。人間サマの本気がどれくらい恐ろしいモノかをよォ!」『雑兵ほどよく吠えるものよ。まずは貴様から血祭りに上げてくれる』 巨大な拳が、ゆっくりと持ち上がる。「来るぞ!」 俺が叫ぶより早く、ベリアルの拳が大地に叩き付けられた。 轟音。 |石畳《いし